
AOYAMASEISAKUSHO
THE CODE“掟”
本証は、ここに名を記す者が、AOYAMASEISAKUSHO の正式に宣誓した一員であり、かつ CODE に拘束されることを証する。
銘記すべきことは、ただ二つ。第一に、Code は絶対である。第二に、第一を忘れるな。これに勝る重要事は存在せず、また存在し得ない。
この者が芸術家であったか、職人であったか、あるいは商人であったか——その実、いずれでもなく、徹頭徹尾どっちつかずの半端者であったこと——を、ここに争いなき事実として証する。加えてこの者は、知の側ではなく、意志の側に立つ。正しいかどうかより、こう在りたいという意志を先に置く。ゆえに再現性を尊ぶ者たちとは、話が合わない。妬まれ、憧れられ、そして当のこちらは興味がない——その居心地の悪さに、この者はとうに慣れている。合理性についても同様である。合理を突き詰めれば、生きることそれ自体が最も不合理だ。ならば、いますぐ死ねばよい。どうせ、いずれ死ぬのだから。
だが——最後にものを言ったのは、まさにその半端さだった。芸術家は、人が欲しがるかどうかだけを見る。職人は、作れるかどうかだけを見る。商人は、儲かるかどうかだけを見る。三つのうち、どれも捨てきれなかった者だけが、三つを同時に握れる。欲しくなるか、成り立つか、実際に作れるか——このうちいずれか一つを手放した瞬間に、残りの二つも意味を失う。半端であることは、欠落ではない。三つのどれも捨てなかった、というその一点において、それは資格である。
さらにこの者は、「同じにすること」に与しない。正確に写したものに、人は金を払わない。似顔絵がそうだ。よく似ている、という評価の先に、欲望はない。正解に向かって収束すれば、顔はみな同じになる。技術が進むほど、それは加速する。0と1で書けるということは、それが概念でできているということであり、概念でできているものは、いずれ同じものになる。世には、一般名詞で呼ばれるものと、固有の名で呼ばれるものがある。前者は取り替えがきく。後者はきかない。この者が作るのは、後者だけである。
さらに、この者の真価は、間に誰も挟ませないことにある。ディレクターがデザイナーへ、デザイナーがオペレーターへ、それがまた実装者へ——そんな伝言ゲームの中継を、この者は決して組まない。ただ一人が、ただ一筆で貫き通す。聞き取りから、正しい問題の発見、その解決、造形、実装、そして成果が生まれるまで——その間ずっと、クライアント自身の人材を育て上げながら。この者は知っているのだ。受け渡しのたびに、何かが失われることを。
よってこの者は、以下の責務を負う。我々の手の内を惜しみなく移転し、クライアントの自立に資すること。仕事の過程でクライアント自身の人材を育てること。そして、任を果たせば、潔く、美しく、後腐れを一切残さずに現場を去ること。
ただし、ここに重大な但し書きを付す。仕様を満たしているだけのもの、正しいだけのもの、誰ひとり欲しがらないもの——そのいずれもが不要であり、いかなる理由があろうと、この場に持ち込んではならない。同時に、余白を削ってはならない。余裕、余白、余分。それらは無駄ではない。効率の名のもとに真っ先に切り捨てられ、そして、そこにしか、人が欲しくなる理由は宿らない。
デザインは、精神の一番外側である。ゆえに、浅ましさも、さもしさも、必ず外側に出る。隠し通せた例はない。よって、AOYAMASEISAKUSHO の名においてここに命ずる。浅ましくあるな、さもしくあるな、みっともないゲームはするな。
本証に定めるすべての責務は、法によってではなく、CODE によって課される。



































